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エピソード

TANK HISTORY
誕生から保育園、小中学校、高校、大学まで、タンク村上のプライベートなエピソードをまとめています。

誕生〜いちい保育園

・1995年8月8日午後3時過ぎに生まれた。体重は3420g。
・はじめてしゃべった言葉が「おにぎり」。当時、よく夜泣きしていたが、あやしていた両親が最初に聞き取れた言葉が「おにぎり」だったことから、夜泣きの原因が空腹だったとわかった。
・保育園では、せわしなく暴れている子どもだった。高いところから飛び降りてはよく怪我をしていた。寂しがりやで、母親が見えなくなると泣いていた。当時の夢はレゴブロック屋さんで、レゴでお城など建築物を作っていた。日本昔話と星獣戦隊ギンガマンが好きだった。

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富山市立熊野小学校

・一学年2クラスの学校で、少し山に近く、熊が出ることから熊鈴を着けて登校していた。
・2年生から6年生まで「熊野家族楽団」という大人と子どもが一緒にやるマーチングバンドに入っていた。本格的な厳しいクラブで、県大会を勝ち、北陸大会で金賞を獲った(全国大会には行けなかった)。最初の2年はスネアドラムをやり、そのあとトランペットをやった。父親と二人で参加していた。トランペットはわりと上手で、高音が出せて、将来も続けるつもりだった。音が好きなのは、ホルンやトロンボーンだったが、トランペットは目立てるところが好きだった。
・クラスではムードメーカー的なキャラだった。立候補して、運営委員長(生徒会長のような役職)をやった。目立ちたがりやである反面、人見知りなところもあった。所属したクラブは囲碁将棋クラブ。
・友達が野球やサッカーをしていた中、球技には苦手意識があった。自転車で遠出したりすることは好きだったが、スポーツ自体にあまり興味がなく、身体もとくに大きくなかった。しかし、祖父(日本ボディビル連盟の副会長を務めた村上満)の家には大量の「月刊ボディビル 」があり、それを熱心に読み、身体の大きい人に憧れてはいた。6年生になると空手と水泳を習い始め、重量挙げを本格的に始める中学2年まで続けた。

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富山市立興南中学校

・一学年3クラスの学校で、吹奏楽部があればトランペットを続けたかったが、部活はハンドボールと柔道とサッカーくらいしかなく、父親の勧めで柔道部に入った。柔道は相手を倒しても嬉しい感覚がなく、体力づくりのために始めた重量挙げの記録を更新する面白さにはまった。父親から「お前は体力がないが、重量挙げは一瞬の競技だからやれるんじゃないか」と助言を受けた。ほかに空手と水泳も続けていたが、重量挙げはステージの上で、自分一人だけ注目を浴びられるところが目立ちたがりやの性格に合っていた。
・勉強は家庭教師をつけてもらっていたが、椅子にじっと座っていることが苦手で、落ち着きがなかった。勉強そのものが苦手というより、せわしない性格が問題だった。その一方で、ニコニコ動画はいくらでも集中して見れた。アニメや素人が投稿する「歌ってみた」が好きだった。
・父親がハードコアパンクのバンドをやっていて、そのライブによく行っていた。トランペットを吹くことはやめてしまったが、トランペットの曲はずっと聞いていた。メイナードファガーソンがとくに好きだった。高音のときだけ、さっと登場してきて、ひとしきり目立ったあと、ずっと休んでいる。トランペットのあり方は重量挙げと共通点があると思った。ほかにセルゲイ・ナカリャコフも好きだった。
・生徒会長もやった。目立ちたがりの性格から立候補して、優等生の候補と選挙で戦った。自分自身はヤンキーではなかったけれど、ヤンキーの先輩たちから絶大な支持をもらい、先輩の組織票で当選した。ただ、選挙での政策議論は、生徒会の力では校則は変えられないことがわかると、何のために議論するのだろうと疑問だった。
・中学3年になると、重量挙げにどんどん夢中になった。自分の世界に集中するあまり、だんだん周囲とのコミュニケーションを閉ざしがちになった。中学では毎年20kgくらいずつ体重が増えて行って、中3で100kgを超えた。体重を増やすこと自体が嬉しくてやっていた。馬鹿みたいに食べて、筋トレして、大きくした。100キロを超したとき、両親に喜んで報告したら、「何が嬉しいの??」と困ったように返されて、自分の感覚が周囲とずれていると気づいた。

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富山県立滑川高校

・重量挙げを本気でやるために入学した。富山県で重量挙げの部活があるのはここだけだった。自宅から20キロほど離れていたため、祖母の家に住み、そこから通っていた。ちょうどその頃、ひどい反抗期だったこともあり、実家を離れて祖母と一緒に住んだのはいい経験になった。
・普通科ではなく薬業科という全国に4校しかない学科で、週に2回、4時間の実験があった。体育会系の先生が厳しく指導する授業で、強豪の野球部の部活よりも緊張感があった。練習で疲れて授業で寝ていて、めちゃくちゃ怒られたこともあった。「この薬品にこの成分はどのくらい入っているか」という定量分析をする実験では、薬を半滴ずつ落として、試薬の色が変わるところで、滴下をやめる。しかし、自分は面倒くさがりで、雑にバーっと落としては「なにやってる!」と注意を受けた。毎回居残りで、重量挙げ以外では落ち着きのない生徒だった。ただ、研究所レベルの器材を扱うのは好きで、毒物劇物取扱責任者、危険物取扱者乙4の2つの資格をとった。
・高校に入っても少しずつ体重が増えて行った。祖母が弁当屋をしていて、作ってくれるご飯がうまいのも大きかった。練習前と後、夜食を二回くらいずつ食べて、自然と体が大きくなった。

日本大学

・最初は法政大学を志望していた。三宅兄弟(三宅義信、三宅義行)の出身校であり、重量挙部の歴史と多くのOBがいて、超級が強かった。しかし、日大のコーチや顧問の先生から熱心に勧誘してもらい、日大に志望を変更した。糸数陽一、持田龍之輔というトップ選手が在籍していたことも大きかった。通年合宿と呼ばれる、ナショナルトレーニングセンターに長期間宿泊し、そこから大学に通うしくみがあることも魅力だった。しかし、入学すると、高校までの実績で天狗になっていた自分の振る舞いから、大学の部活やナショナル合宿で伸び悩み、自信を失い、ゼロから頑張りなおさないといけなくなった。その結果、希望していた通年合宿のメンバーに入れることはできなかったが、自分を見つめ直すことができ、学びの多い四年間だった。
・大学は体育学科で、実技の授業がたいへんだった。水泳、体操、陸上(投擲)などは面白く、とくに砲丸投げは本気でやってみたいと思った。

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